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2~3年前、友人たちとの交流に使っていたTwitter。
今はすっかり見ることを止めました。
その理由としては自分の場合、コメントがないか頻繁に気にしてしまったり(ニートで時間は有り余っているから余計に)コメントがあれば何かしら返信を残したりしないと悪いような気がして、勝手ながら疲れてしまいました。
そうなる前まではもっとも多くのコメントを残していた自分。
昨年、友人2人が自分の性格を察して、会ったとき苦笑まじりにこんなことを言ってきました。
「別にコメントがあったからって必ず返信する必要はないよ」
「見るだけでもいいんだよ」
友人たちは自分がTwitterを読んだり、書き込みをしなくなったりした理由を分かった上でアドバイスをくれたのですが、これが微妙に苦痛でした。
もちろん、友人2人が言っていることが正しいことは理解しています。
要は真面目すぎる自分に対して、「もっと気楽にやろうぜ」というアドバイスで、それはまったく間違っていません。
しかし、自分は「どうしても気にしてしまう人間」。
だから見るのをスパッと止めたほうが息苦しさはなくなるような感覚で楽なわけですが、この部分が友人たちからすれば「両極端すぎる」「融通が利かない」と言われてしまうのです(苦笑。
この部分は、自分と同じようなタイプの人にしか理解されないということなのでしょうね。
ちなみにTwitterをみるのを止めただけで、友人たちと絶縁したわけではありません。
自分としては「携帯に連絡くれれば対応するから、ツイッターは控えます」といった感じです。
だから友人たちもそれ以降は何も言ってきません。
自分の行動が「良い」とは思っていないでしょうが、kanimisoがそうしたいなら、まあしょうがないといった感じです。
自分がもう少し柔軟な思考の持ち主なら、もっとベターな解決策を選べるのかも知れませんが。
しかし、最近思います。
正しい、正しくないとかではなく、自分が楽なほうを選ぶのも大事なことなのじゃないかと。
今回の件もTwitterを続けるという道があると思いますが、それでは自分が「しんどい」思いをするので止めたわけです。
正しいとは言えないけど、これはこれでいいんじゃないかと。
理由にはなってないかもしれないけど、「なんか嫌」なもんは嫌なわけです。
だから、傍からみて変でも許してほしいと思います。
人に迷惑をかけるようなことなら、また話が違ってきますけどね。
大人になるにつれ、世の中、白か黒かだけで分けられるようなものばかりではなくなります。
自分もこういう考えになるまでは、正しいと思い込んだことを相手に押し付けたものですが、それではやはりいけないのだなと思います。
グレーもあると認めないと生きるのがしんどい(笑。
自分の考えとは違う場合でも、相手のことを想うのは大切ですね。
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